第10話:研究室 [5/6]
彼女の部屋
建物を出て、大学の構内をフラフラと歩き続ける。
「主」
その背を黙って見守っていたが、江雪は訊かずには居られなかった。
「駅と反対方向です。何処へ、向かっているのですか?」
「あ、」
どうやら無意識だったらしい。
「あー……。まあ、一旦下宿に寄ろう」
大学を縦断し、少し住宅街の中を進むと、背の低いマンションに辿り着いた。静脈と虹彩を認証させ、門を開く。
コウの部屋は二階の一番奥で、扉を開けると数ヶ月間閉め切られていた空気がむわっと流れ出てきた。
コウは換気もそこそこにエアコンを入れると、パソコンを立ち上げる。江雪は急に自分の存在を忘れられた気がしたが、コウが話したくなければ無理に訊き出すつもりはない。第一、二時までは部外秘だと念を押されたのだし。
「あと二分……」
ブラウザを開き、時刻を確認したコウが呟く。此処で再び江雪の存在を思い出したらしい。
「何か飲む? ってか、正座するな膝が出るだろ」
江雪をシーツの剥がされたベッドの上に座り直させ、コウはキッチンへ。しかし、
「冷蔵庫に何か入ってる訳なかったな……」
という独り言の後に水道の音。水道管の中に溜まっていた水を流しているらしい。
「とりあえず」
「ありがとうございます」
コップに浄水器に通した水道水を注いだコウが戻ってくる。一気に飲み干してしまう程度には喉が渇いていたらしい。
コウは先程からブラウザをリロードし続けている。時刻は二時三分を回っていた。
「キャッシュか」
また独り言。それとも江雪に話しかけているつもりなのだろうか。
あるキーを押しながらリロードすると、彼女が見ていたページの表示が変わった。新たに現れたリンクをクリックし、内容を確認した後、彼女はそのリンクをSNSに投げた。
「何か買ってくる。留守番してて」
「解りました」
コウがサンダルで部屋を出て行く。江雪はそれを見送ると、部屋の中を見渡した。
審神者になる事にして、長く空ける事が解っていたからか、かなり整理整頓されていた。それでも留守にしていた間に埃だけが積もっている。掃除機らしき物を部屋の隅に発見すると、江雪は目に付く所だけでも綺麗にしておいてやろうと手に取った。
本棚には英語と日本語の本がまぜこぜで並べられている。
(時空論、Cosmology、線形代数学、アルゴリズム……)
非番の時に英語等を勉強していた甲斐があり、書物の題名くらいは読めた。日本語の数学の本を手に取ってみたが、流石に中身はちんぷんかんぷんだ。
それでも、これが彼女が愛した世界。この世界を記述する言葉。
江雪は本を棚に戻し、掃除を再開する。狭い1Kはあっという間に綺麗になった。
掃除機を元の場所に戻して気付く。
(……おかしいですね)
ある筈の物が、一つも無い。
コウは武道を嗜んでいた。なのに、武道に関する本は一つも無い。かなり強かったから、トロフィーや賞状も一つや二つ飾ってあってもおかしくない。そもそも練習道具すら置いてある気配がしなかった。
(片付けたか、本丸に持って行ったのでしょうか?)
此処は下宿であるし、実家に置いてきた可能性もあるか、と江雪は深く考えないでおいた。それよりも、と付けっぱなしのモニターを見遣る。
(一体何が……)
コウが見ていたページを読み、江雪は二、三度口をぱくぱくとしてから、悲しい顔をしてモニターから顔を離した。
『訃報 ○○大学△△名誉教授 □□□□□ 21XX年ノーベル物理学賞受賞』
(……『死する躰』)
自分でそう言った事さえ忘れていた。人間になれば、それで永久に幸せではないのだ。いつかはその生に終わりが来る。分霊が本体に吸収される時と同じ様に、その先には何も無く、これまでの全てを失う。それが、死。
「ただいまー」
玄関からコウの声が聞こえた。江雪は迎えに出る気にはなれず、そのまま隣のベッドに腰を下ろす。
(死…………私は、人を斬る刀……)
もう何人死へ追いやったかなんて覚えていない程なのに。自分のこの身は失いたくないなど……なんと都合の良い我儘だろうか。
「江雪ーアイス、バニラと苺、どっちが良い?」
キッチンからコウが顔を出す。
「江雪?」
江雪は顔を上げた。
いや、自分が失われるだけならまだ良い。彼女だって遅かれ早かれその生を全うする存在。彼女を失う事など、想像したくもなかった。
「あ、何方でも……」
「じゃあ苺あげる」
はい、と手渡されたスプーンとアイスを受け取る。蓋を開けると、苺の果肉が血の様で一瞬食べるのを躊躇った。床に座ったコウが不思議そうに見上げるので一口すくって口に入れる。この美味しさには勝てない。
「亡くなられたのは、親しい方なのですか?」
「ん、プレスリリース読んだか」
コウが努めて平静を装うので、尋ねてみる。少なくとも、個人的に連絡が行く程の関係では無いから、大丈夫だろうとの判断だ。
「直接話した事は無いよ。名誉教授は普段から研究室にいる訳じゃないから。何度か講演聴いたり廊下ですれ違っただけ」
「お会いした事は、あるのですね。お辛いでしょう」
「まあショック受けてないと言えば嘘になるな……」
コウはその後黙々とアイスを口に運んでいた。カップが空になった所でコウの方から話し出す。
「凄い人だった……。そこに本があるだろ?」
コウが指差す先に、先程の「時空論」の分厚い背表紙があった。何度も読んだのか擦り切れたそれを良く見れば、著者名が報じられていた人物と同じである。
「天才ってのは先生みたいな人の事を言うんだなって……。惜しい人を亡くしたよ、私達だけじゃなく、世界的にね」
江雪も黙ってアイスを食べる。中身が無くなるとコウがスプーンとカップを回収してキッチンに姿を消した。
死。たとえそれがたった一人のものだとしても、その一人は誰かの特別な一人かもしれない。たとえそれが老衰によるものだとしても、永遠の別れを惜しまぬ者が居ない筈がない。
江雪は研究室で感じた恐怖を、今ははっきりと感じ取っていた。死が怖ろしい。誰かを殺す存在である自分自身ですら。
「あんまり暗い顔しないでよ。別に親が死んだとかそんなんじゃないんだからさ」
あまりにも暗い様子なのが伝わったのか逆に気を遣われてしまった。コウは押し入れからシーツを出してベッドに広げる。
「掃除してくれた?」
「勝手ながら」
「ありがとう」
作業が終わると彼女は身をその上に投げ出す。江雪は再びベッドの端に腰掛けた。
「……何時、お戻りになる気ですか?」
うつ伏せのまま動こうとしないコウに尋ねる。返事は、その問に対する答えではなかった。
「死んだら何もかも終わりなのに、何をしようとしてるんだろうな」
「?」
「人間は死ぬ。それでも、著作物や研究成果や想い出は残るって皆は言う。だけど、この宇宙そのものにも寿命はあるんだ。時空と物質は切っても切れない関係にある。時空論の基礎だよ」
「宇宙の死は、我々の死と同義であると?」
「死……いや、『無』に還ると言った方が正しいな。全ての情報は失われる可能性の方が高い」
コウはシーツを握り締めた。
「私達が積み上げている何もかも無意味なのさ。永遠に在り続けるものなんて無い。……まあ、霊界とか神界とかがあれば別だけど」
ちらりと江雪を振り返る。江雪は彼女から目を逸らした。自分でもそのようなものがあり、宇宙が物理的な死を遂げた後も存在し続けるのかどうかは判らない。ただ、その可能性を否定する事も出来なかった。
「知ってたんだけどな」
呟きに振り向くと、コウは再び顔をシーツに埋めていた。
「今の人類の叡智や、このペースじゃ、私が生きている間に究極理論に辿り着く事は出来ないって。仮に辿り着いたって、結局は人類のエゴで終わるものだって。だから、ネジでも構わないと思った。小さいネジでも、人類がそこに到達する為に欠けてはいけない一つになろうって。宇宙が終われば価値なんてものを評価する存在も居なくなる訳だから、それで十分じゃない?」
江雪は黙って続きを促す。
「でも、世の中に存在するネジは、大体どれも同じ様な形だし、たまに変わったのが居てもその殆どが不必要なダミーだったんだ」
「そんな……」
「私はそう。結局何にも成せないまま終わるんだ」
長い沈黙が降りる。江雪が漸く上っ面だけの慰みの言葉を思い付いた頃、コウは身を起こした。
「今日、こっちに泊まって良い?」
「貴方がそうしたいなら」
コウはブラウザを閉じ、本丸に居る一期にメールを書く。返信は速かった。
『承知致しました。江雪殿の畑当番には、別の誰かを充てがっておきます』
(あ……)
特に何も考えていなかったが、ただ「泊まる」とだけ書いたら当然の如く江雪も現世に一泊だと思われたらしい。
(うーん、まあ、良いか……)
二時間の道程を一人で帰すのも可哀想だし、官庁まで送る元気も無いし。というか、独りにされたらこのまま此処に引き籠もりそうだ。
「……お前の気替えでも買いに行くか……」
江雪は一瞬キョトン、とした表情をしたが、直ぐにどういう話になったのかを悟って顔を赤らめる。
「あ……あの…………」
「頼むから何も言うな。どうせ今日の私に何かやる気力は無い」
コウは玄関に向かうと靴を履く。江雪はその小さな背を見詰めた。
避けられない死。
彼女が望んだ特別と永遠。
なんという事だ、自分はそれを与えられるかもしれない。
(宗三の……言う通りなのかもしれませんね……)
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