第7話:粟田口兄弟は一途でありたい [1/3]
「かしゅー! ったく、何処に居るんだ……?」
大倶利伽羅のアタックから逃げて来た審神者は、清光の姿が見当たらないので足を止めた。その頃、清光は一人で食事の下拵えをしていたので、母屋に居る彼に見付からないのは当然だったりする。
(そろそろ帰るか……)
大倶利伽羅の性格からして待ち伏せしているとは思わない。近くに小夜の気配もあったし、と審神者が踵を返すと、元薙刀兄弟とすれ違った。
「お疲れ」
「ああ」
殆ど表情の浮かばない顔をほんの少し綻ばせた骨喰に対し、鯰尾は無言で審神者を睨んだだけだった。
しかし閉心の出来ない彼の瞳は口程にものを言う。
「鯰尾」
風呂に向かうのであろう彼を、数歩進んだ先から呼び止める。同じ色の瞳が四つ此方を見たが、骨喰は「先に行ってる」と気を利かせた。
「何ですか?」
鯰尾は相変わらず仏頂面で、近寄って来た審神者を見上げる。審神者は動いて服の中に入った長い髪を手で持ち上げて整えてやった。しかし、そんな事の為に審神者が呼び止めた訳では無い事くらい、読心が出来なくても判る。
審神者から発せられる香水の匂いと魅惑的な力に吐き気を催しながら、再度尋ねようとした時、審神者がやっと口を開いた。
「自分だけは忘れまいと気にしすぎて辛いんだろ」
鯰尾は唇をキュッと結ぶ。涙腺の穴も気合で塞ごうとしたが、人間の体はそういう事は出来ないらしい。大きな目から真珠の涙がボロボロと溢れる。
最初から全て、この審神者にはお見通しだったのだ。鯰尾が忘れたくなかった事、忘れたい事、忘れてほしくない事、忘れたくないが忘れなくてはいけない事。
「吐き出せよ。受け止めるから」
項垂れる鯰尾の肩を叩いた。鯰尾は細く開けた口から、蚊の鳴くような声で紡ぎ始める。
「あ、貴方を……」
「うん」
「貴方を……慕っても……」
「誰も咎めやしないさ。まあ、大倶利伽羅達みたいに一線は越えてほしくないけど」
鯰尾は頷く。
鯰尾は前の主を慕っていた。周りの刀達がだんだん彼女の話題を口にしなくなっていく中、彼は思ったのだ。
今、この本丸で彼女を一番慕っているのは自分だ。自分が彼女を忘れたら、他の誰が彼女の存在を懐かしむのだろう。
そう疑問に思う度に思い浮かぶ顔がある。自分を炎から逃がそうとして命を落とした、昔の持ち主。徳川に渡ってからも、一日たりとも忘れた事がない彼の顔。
鯰尾は以前の持ち主に固執して、徳川で、徳川の刀として誇りを持つ事など出来なかった。一緒に徳川に渡った殆どの刀は、刀として、道具として、新しい持ち主の手に馴染んだというのに、自分は。
そして、今は徳川に向けていたのと同じ感情を、目の前の審神者に向けている。
「貴方を……貴方に……」
この気持ちを言い表すべき言葉が多すぎて纏まらない。審神者は泣きじゃくる鯰尾の背中を撫でた。
「使ってもらっても……前の主は……」
「怒る訳ないだろ? 俺はあいつからお前を譲られたんだし。大事にしてやるから」
大事にしてやる。そう、徳川の者もそう言ったのだ。
お前は名のある刀。殆ど焼け焦げなかったのは奇跡だ。後世まで長く丁重に扱ってやると。
以前の主の命に代えて保たれた自分の価値。それを徳川は言葉通り、何世紀にも渡って守り続けたのに。
「俺は……徳川を許せなかった……」
鯰尾は審神者の腕を掴んで握り締めた。
「けど、今となっては虚しいだけだ」
いつか豊臣の末裔が徳川を滅ぼしに来てはくれまいか。何も出来ぬ一介の付喪神としてそんな事を考えている内に、徳川の時代も終わってしまった。
平和な時代が訪れ、鯰尾は貴重な過去の遺産として博物館で展示される事になった。ある者は物珍しそうに、またある者は目をキラキラさせて前を通り過ぎて行く幾千もの顔。その時やっと気付いたのだ。自分はもう、前の主を殺された恨みなど、とうに忘れ去っていた事に。
「あんなに憎んでいたのに、今はこの時代まできちんと手入れをしてくれた感謝しかないんだ。俺は秀頼様の事も忘れてしまったのかな」
(そして、彼女の事も忘れてしまうんだろうか)
嗚咽が止まり、やけに淡々と言葉が出る。審神者は溜息を一つ、そして鯰尾の背中に喝を一つ。
「痛って!」
「忘れる忘れるって言うが、実際には『思い出せない』だけだ。経験や思い出はお前の中から消える事は無い。ほら、馬臭いから風呂行け、風呂」
審神者がお得意の魅惑的な笑みを浮かべる。鯰尾は悪態をつきながらも、踵を返して浴場へ。
廊下を駆けるその足取りは、何かが吹っ切れたかの様に軽かった。
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