第3話:矛盾
今があれば、それで良いじゃないですか。
清光が馬当番の仕事を終え、風呂に入ってから自室に戻ろうとしていると、通りがかった部屋から怪しげな音が聞こえてきた。
「んっ…」
独特な水音と、合間に挟まれる掠れた喘ぎ。
この屋敷は、様々な時代に造られた刀剣達の趣味に合うように、様々な時代の家屋の内装が施してある。清光の部屋は障子に襖だが、壁代に御簾という部屋もある。尤も、財政難で刀剣達の希望通りにならない事も多いが…。
そして此処は、記憶を失った脇差兄弟の部屋。風を通す為に半分開けられた障子の向こう側に、服を着た二人分の脚が絡まり合っているのが見えた。
「おい」
清光が障子を軽く叩く。畳の上に重なるように寝そべっていた二人は、互いの顔を離さぬまま目を見開いて彼を見た。
「邪魔するなんて、君も空気が読めないねえ」
覆い被さっていた方がもう片方の服の下に入れていた手を抜き、乱れた長い緑髪を整えながら起き上がった。清光は口を尖らせる。
「どー見ても青江が鯰尾を襲ってるようにしか見えなかったから?」
青江はにっかりと笑う。鯰尾は濡れた唇を手の甲で拭い、同じように髪を結い直しながら立ち上がる。
「そりゃどうも。でも合意の上なんで安心してください」
「つーか、まだ昼過ぎ。せめて障子閉めてやれ」
骨喰や主に見られたらどうする、と清光が忠告しても、二人共にやにや笑うだけで効いていない。
「まあ、暑かったしねえ」
「骨喰は今日は近侍ですよ。今頃主に髪の毛でも結わえられてるんじゃないかな?」
清光は彼の言い様が気に食わず、さて、どうしたものか、と考える。と同時に、自分は意外と真面目だったのかと認識する。なんというか、こう、本丸が乱れているのは良い気がしない。安定が主と行っている事とはまた違う嫌悪感。
「僕は帰るよ鯰尾」
黙りこくって二人を睨みつける清光にうんざりした様に、青江は立ち上がる。
「しないの?」
「今ので醒めちゃったよ。鯰尾がしたかったら清光君にでも頼めばいいんじゃないかい?」
「ばっ…」
顔を真っ赤にした清光とは対照的に、にっかりは飄々とその場を去る。残された清光は鯰尾を責めた。
「おっお前! もしかしてしょっちゅうこんな事…」
「してたら…どうします?」
微笑みながら近付く鯰尾は、怒っている清光でさえ一瞬「可愛い」と思ってしまう程だ。鯰尾は愛され方を良く解っていた。
その愛らしい顔で、悪戯っぽい視線を寄越して、見た目からはちょっと想像できないような言動を悪びれもせずにする。それだけで周りの者は彼に夢中になってしまうのだ。
それが愛されたい一心で見目に拘る清光の神経を逆撫でする。自分だって…自分だって、こんな姿でなければ…。
「どうって…良い訳無いだろ!」
「んん? 何故ですか? 別に本丸の規則に他の刀剣とヤッちゃいけないってのは、無いですよね?」
そう言われると返答に困る。爪紅だのイヤリングだの、戦いの邪魔になるような物に拘る清光だって、ある意味風紀を乱しているのだから、それを言い訳には使えまい。
「…ヤるのは構わねえけど、見せられる方は不快なんだよ」
「じゃあ、以後は気を付けますよ」
そう言うと鯰尾は清光の背後の障子を閉める。清光は一瞬鯰尾の意図を読み切れず、気付いたら畳の上に倒され、まだ少し湿っていた唇を重ねられていた。
「なっ何すんだよ!?」
鯰尾が顔を離した隙に怒鳴る。腹の上に座られているので逃げる事は出来ない。
「あれ? 今『ヤるのは構わない』って、言いましたよね?」
「だからって俺とヤろうとするな!」
「生憎俺はこう見えて好色なんですよ」
「こう見えてっつーか、いっつも主にお触りしてるだろ!」
そういう所も清光は嫌いだった。
あれよあれよという間にお気に入りの部屋着を半分脱がされる。嫌悪感だけだった清光の心に、恐怖感という別の感情が生まれる。
(誰か…)
再び、鯰尾の暗い紫色の瞳が近付く。その中に助けを求められる者の姿を探した。
(主……安定…)
清光は急に力を込めて鯰尾を突き飛ばし、部屋の隅へと逃げた。骨喰との空間を隔てる衝立の柱で頭を打った鯰尾が、ぶつけた所を摩る。
「痛ってっ。怖がらないで下さいよ。俺が下で良いし…」
「そういう事じゃなくて!」
清光は、鯰尾の事が解らなくなってきていた。先日、己の欲求ばかりに目が行っていた自分を諌めたのはこいつだろう?
その鯰尾が、今、恐らく彼の一番醜い欲望を自分に向けている。
「なんつーか…その…一人でするんじゃ我慢できねーのかよっ」
「出来ますけどね。誰かとする方が俺は好きなんですよ。それに、これは人間の身体を持っている限り捨てる事の出来ない本能的な欲求だから」
鯰尾が回復する前に、清光は部屋着を整えて立ち上がる。
「清光が嫌ならもうしないって」
鯰尾の言葉を耳に入れないようにして、清光は部屋から逃げた。
(何なんだよ一体。そんなにヤりたいのかよ)
どたどたと去り行く音を聴きながら、鯰尾は畳の上に寝そべって天井を見上げた。
自分だって、好きで求めてるんじゃない。好きで人間の身体を手に入れた訳じゃない。
「いっそ、歴史なんて書き換えられてしまえば…」
此処に来てからもう何度となく考えた言葉を口にする。そうすれば、自分も、兄弟も、焼けずに済んだのではないか。
過去なんて振り返らない。そう口では言う自分自身が、一番過去に囚われている事なんて、解り切っていた。一方で、主達、歴史を守りたい側の言い分が正しい事も。
そんな矛盾を抱えたまま、中途半端に失われた記憶を抱えたままでは、鯰尾の心は持たなかった。しかし、この身体は性欲を満たす時にはそんな矛盾さえも頭の中から追い出せるという、都合の良い機能があった。誰かに抱かれている時だけは、「今」さえあれば十分だ、と心から思う事が出来た。
まさか、隊長が出陣の時に正気を保っておく為に、非番の時は殆ど誰かの身体に溺れているなんて、あの純粋そうな主は夢にも思っていないだろう。
「兄弟」
突如呼ばれて鯰尾は飛び上がった。清光が開け放していった障子の向こうから、顔の横の髪を結った骨喰が顔を覗かせている。
「眠っていたのか?」
「いや、起きてたよ。近侍の仕事は?」
「可愛く出来たから、鯰尾に見せに行って良い、と主が」
骨喰は鯰尾の前に正座する。こうして見ると本当に女子の様に見えた。
「可愛いか?」
「可愛いよ」
「可愛くして…どうするんだ?」
「うーん、まあ、周りが楽しめるからね」
鯰尾は骨喰に口付けようとしたが、骨喰は重心を後ろにやってそれを躱す。
「駄目だ兄弟。今は」
仕事中だ、と付け加えると、骨喰は主の所に戻って行った。
残された鯰尾は、再び寝転がると呟く。
「『今は』か…。俺達に未来なんてあるのか?」
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