第10話:小夜左文字のアイデンティティ [3/4]
小夜達が小部屋を出ると、既に強制リタイアさせられた三振が、ケロッとした顔でお茶を飲んでいた。どうやら、あの怪我や痛みも全てシミュレーターの感じさせた幻だったらしい。なるほど、利用料は必要だが、刀の修復資材が必要無いのは便利だ。
「なんだギブアップか。次はもう一段階レベル落とそう」
審神者が立ち上がり、壁に設置されたパネルに触れる。
「あれ?」
しかし、システム停止中、との表示が出て画面が進まない。
(中の人が休憩してるかな)
「ねえ」
「ん?」
ベンチに座った小夜が、額に浮かんだ汗を手の甲で拭いながら話しかける。
「この装置……向こう側に誰が居るの?」
誰かが居るの? ではなかった。小夜はもう気付いている。
「それは……うおぉ!? って、お前かよ……」
審神者が言葉を濁すべきか考える暇も無く、突如審神者の背後のドアが開いた。驚いた審神者が飛び退くと、黒い短髪の、審神者より少し背の低い若者が、息を切らして立っていた。肘や膝には怪我を防止する為のパッドの様な物を着けている。
「お久し振りです……あい殿……」
若者は審神者に笑いかける。深い碧の瞳が覗いていた。審神者は笑みを返し、黙ってベンチの方を指す。
そこには、言おうとしていた言葉を見失った小夜、審神者と同じ笑みを浮かべた鶯丸と、やはり三者三様に驚いた顔の宗三と粟田口兄弟が居た。何も知らない日本号は眉を寄せたまま、飲んでいた茶のボトルの蓋を閉める。
「江雪さん!」
小走りで寄ってきた彼にまず飛び付いたのは、鯰尾だった。
「お久しぶりです」
「こちらこそ。髪の毛切ったんですね」
続いて一期が礼儀正しく挨拶する。ついでに鶯丸と日本号の紹介を済ませた。
そして、若者はかつて「弟」と呼んでいた者達を振り返った。
「宗三……」
ピシャリ、と乾いた音が廊下に響いた。伸ばされた手を、宗三が払い除けた音。
「あ……」
その音に自分でも驚いて、宗三は口元に手を当てて震えだす。言葉を紡いだのは、小夜だった。
「江雪兄さま」
同様にショックを受けた顔の若者が、青い子供を振り返る。他の者は、ただ見守る事しか出来なかった。
「僕達に、あなたに向けられる顔があると思ったの?」
「お小夜……」
「僕達に、自分がしでかした事の顛末を目の当たりにしたい気持ちがあると思った!?」
沈黙が下りる。それでも、青年は小夜に手を伸ばした。
「貴方が貴方を責める必要など、無いのですよ……。宗三もです」
「でもっ」
小夜は取られた手を払う事はしなかった。なおも反論しようとする口の動きを、優しい表情が止める。
「私は、もう貴方の兄ではありません。刀の付喪神でもありません。刀の本分は、持ち主の役に立つ事、それだけですが、私はもうそれに囚われる必要がなくなった」
戦う事でしか得られなかったアイデンティティを、今は皆が与えてくれる。自分で決めて生きていく事もできる。命の続く時間は有限になってしまったが、その代わりに得られたものは大きい。
「ですから、貴方達を恨んでなど、いないのですよ」
若者が手を伸ばす。大きな掌が小夜の頭に触れ、髪の毛を出来るだけ乱さぬ様に撫でた。
彼が初めて兄と邂逅した、あの日の様に。
「私は……幸せです」
「でもっ」
小夜が、掌を頭に乗せたまま顔を上げ、同じ色の瞳を見る。
「江雪兄さまはもう……」
付喪神ではない。朽ちない身体も、敵を倒す力も無い。それは嘗て刀だった頃、彼が望んでいたものだったかもしれない。しかし、彼に望まれていたものではない。彼の存在意義ではない。
それを自分は奪ってしまった。
「小夜」
小夜が言いたい事を汲み取ったのか、若者は手を下ろすと、しゃがんで視線の高さを揃えた。
「貴方には解らないかもしれません。ですが、これだけは、伝えておきたい。私の存在意義は、私自身が決める事が出来るのです」
それが人間になった、という事です。そう笑った彼を複雑そうな顔で見ていたのは、左文字兄弟だけではなく、審神者も同様だった。
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