宇宙混沌
Eyecatch

あの女は生きている

 あの女[アイリーン・アドラー]は死んだ――その一報がクソ兄貴から届けられてから時間が経った。
 俺は犯罪卿がアドラーを上手く生かしておいてくれたと信じている。だからもう、犯罪卿の名前が書かれた手紙は燃やしてしまった。それに仮に死んでいたとして、何をどう足掻こうが死んだ人間は生き返らねえ。
 だから221B[ここ]で今まで通りの暮らしを送るしかねえんだ。
「んなこた解ってんだよ!」
「へーえ、解ってるなら支払っていただけます? 今月のお家賃!」
 げ、まずい。考え事してたからハドソンさんが俺に話しかけていることに、というか部屋に入ってきていたことにも気付かなかった。
「いや、その、今のは家賃の話じゃなくて――」
「言い訳しようが滞納しているのは事実よ事実! ジョン君はとっくに払ってくれたわよ」
「わかったわかった。明日にでも何とかするから」
「絶対ですからね!」
 ハドソンさんを部屋から追い出し、俺は煙草に火をつける。
 今まで通りの暮らしをするしかない。そんなことは解っている。それでも、また会いたいと願うのは我儘だろうか。顔が見えないことで不安を募らせるのは、責められることだろうか。
 いや、一つだけ方法がある。俺が犯罪卿の素性を明らかにすることだ。しかしこれには誤算があった。俺は、犯罪卿の立場が危うくなればアドラーの身も危ぶまれる事に気が回らなかった。
 それでもあの時はあいつに託すのが最善だったんだ。
「お前もそうも思うだろ?」
 俺は半分に折った写真の中の女に問う。微笑んだ美女は、沈黙を貫いていた。

「こんなんで機嫌直してもらえるのか?」
「こんなのとか言うなよ。花屋さんが丹精込めて育てた花だぞ」
 俺は先日のハドソンさんへの詫びの品を買いに、ジョンの勧めで花屋に来ていた。
「つか、家賃滞納してキレられてるんだから、無駄遣いしない方が良くねえ?」
「花の一本二本なんて、君の普段の浪費に比べたら可愛いもんだろ」
「だけどよ――」
 俺は途中で言葉を止めた。通りから、何処かで聞いたような声がしたんだ。
「シャーロック?」
「悪い、これ持って先帰っててくれ」
「えっ、ちょっと、シャーロック!」
 俺はジョンに小さな花束を押し付けると、曲がり角までダッシュする。
「本当に買わなくて良かったんですか?」
「うん。うちでは君が育ててるし」
「僕が育ててるのは薔薇だけで――」
 あの少年[ガキ]は、確かホープの時の! 隣に居る金髪にグレーのスーツの男は――
「……走って!」
 少年に気付かれた。二人は俺を振り返りもせずに、めいめいの方向へ走り出す。
「やれやれ、君が居るのがわかったから店に入らなかったのに」
 そうぼやく金髪の方を追った。
「まさか花を買うような[ひと]だとは思ってなかったら油断した」
 ちょこまかちょこまかと方向を変えられる。流石に体が軽い女なだけあるな、すばしっこい。俺は全速力で追いかけたものの、あっという間に撒かれてしまった。
「クソッ」
 俺は近くのベンチに座り込んで悪態をつく。
「あれ、此処……」
 アドラーと共に服を買った後、このベンチで休んだのを思い出す。そしたら子役達の喧嘩が始まって……。
「……『あの女は死んだ』」
 アイリーン・アドラーは死んだ。もう二度と舞台に立つことはない。
 何故なら。
「舞台の上じゃなく、この地上で演技を続けてるってか」
 犯罪卿の為に。犯罪卿の目的はまだはっきりしねえ。だが俺はふと、シェイクスピアの一節を思い出した。
『地獄は蛻の殻だ。全ての悪魔は地上[ここ]に居る』
 本当に義賊なのか? いや、義賊だとしても殺しは駄目だが。
 俺は背もたれに体を預け、空を見上げる。腹が立つほど天気が良い。
「……もう青い服は着ねえのな」
 それが良い。そう思ったら、必死こいて追いかけた事が恥ずかしくなってきた。あの女は死んだ。それで良いだろ、命を狙われ続けるよりは。
「お~い、シャーロック~」
 息を切らしながらジョンが走ってきた。
「やっと見つけた」
「先帰れって言ったろ」
「僕が持って行っても意味ないだろ!」
 ジョンは俺に花束を突き返して、隣に座る。
「急にどうしたんだよ」
「探してる奴が居たと思ったんだが、他人の空似だった」
「それは残念だったね」
「ああ」
 いや、まだ生きてることが判ったし、演技しているとはいえ声も聴けたんだから十分だろう。
「しかし、何の花が欲しかったんだ?」
 考えても答えは出ない。俺がその種類を特定するには情報が少なすぎる。今は。
「え? ハドソンさんの好み? やっぱり僕がさり気なく聞いといた方が良かった?」
「そこまでしなくて良い」
 俺は立ち上がる。さて、221Bでおかんむりのハドソンさんに、機嫌直してくれって言わねえとな。
 じゃなきゃそのうち追い出されて、あの女が道から俺に挨拶できなくなっちまうだろ。

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