宇宙混沌
Eyecatch

第1章:二人の里帰り(前編) [1/6]

 母の顔も覚えておらぬ。父の声ももう思い出せぬ。
 俺は物心ついた時から、妖狸の名家、狸平[まみだいら]の「若君」であった。先代である父は俺が二つの時に死に、正式に家督を継いでいないのは、単に元服前だから、という理由があるだけだった。
 だから皆は、急ぎ俺を立派な殿様にする事だけを考えた。学問、武術、妖術に励み、時には狸穴島の最高権力者として、形式的だとしても政の決断を下す日々。
 それでもあの頃の俺は幸せだったと思う。家来達は幼い俺を懸命に支えてくれた。母に似た端麗な顔立ちだ、父譲りの聡明な決断だ、と褒めそやしてくれた言葉に、少々の世辞はあっても嘘は無かろうと思っていた。
「あにうえ」
 何より、弟の存在が俺の励みとなった。弟の菊之助は、生まれてすぐに両親を立て続けに亡くした。僅かながら親の記憶のある俺とは違い、菊之助には俺しか居ない。
「どうした菊之助」
 だから俺は頼れる兄で居たかった。
「こわいゆめをみました」
 菊之助は俺の紅葉色の着物に縋る。
「どんな夢だ?」
「あにうえがいなくなってしまうゆめです」
 俺は読んでいた書を置くと、俯く菊之助の頭を撫でた。
「夢は夢だ」
 その言葉が真実であれば、どんなに良かっただろう。
 ただ一人だけ、俺に厳しい家老が居た。狸平家の大家老、狸穴将監。しかし何と言っても大家老だ。その厳しさも、満月狸の封印を解いたのも、俺や狸平の行く末を案じ、未熟な俺を育てる為だと信じていた。
 そう信じていたのに。

「キャハハハハ! ハハ! ハハハハハハ――」
 俺が十になったら元服させる。家老の一人にそう言われて間もないある日。出された豆腐を食べた途端、妙な感覚がした。異常を家臣に伝えようと口を開くと、狂ったような笑いが出てきて収まらない。
「若君! 如何なされました!?」
「さては毒か? 毒見役を呼べ!」
 違う。これは毒ではない。伝えたくても喉から上がってくる言葉は全て奇声に変換される。苦しい。じきに息が続かなくなった。
「一先ず若君を床まで」
「ならぬ」
 俺の絶え間無い笑い声が響く中、そう言ったのは将監だった。
が菊之助様に移ったらどうする! 竹千代様は遠くの部屋へ隔離せい」
「しっ、しかし……」
「隔離するのだ!」
「……承知致しました」
 俺を抱え上げた八衛門の腕の中から、将監の膝で眠る菊之助を見た。俺がこれだけ大声を出していて、何故起きない?
 まさか、将監は、菊之助にも……。
「……っ! ハハ! ハハハハ――」
 菊之助! そう叫ぼうとした声も届かない。
「嗚呼おいたわしや。竹千代様、この八衛門は竹千代様の味方でございますからね」
 それからは、それまでの日々が嘘のようであった。俺は屋敷の隅の、障子も襖も破れているような部屋に、実質閉じ込められた。
 毎日のように悪い報せが届けられた。無実の――そう知っているのは俺だけだが――毒見役が処刑された。家来の誰々が俺を見限って将監に付いた。俺の病を治す為と言って、将監が民に重税を課した……。
「やはりこれは毒ではないでしょう。若君を狙った呪いか何かです!」
 八衛門だけは真実を追い求めてくれた。しかし、真実が俺に味方をしてくれる訳ではなかった。
「何!? では無実の毒見役を殺したのか! 奴の家族への見舞い金に、また金が必要になるではないか」
 将監の部下が、廊下から俺を睨め付ける。もう半月以上もまともに息が出来ず、また何か盛られるのではと恐怖でろくに物も食えない、弱り切って床に臥せた俺を。
 俺はそれまで、嫌われるという事を知らなかった。裏切られる事の辛さを知らなかった。他人の視線がこんなにも痛いものだとも。
 将監は本当に俺の事が邪魔だったのだ。ならばいっそちゃんとした毒で、すぐに死なせてくれれば良かったのに。
「竹千代様。こうなったら、武蔵から私の知り合いの法師様をお呼び致します。それまではなんとか……」
 八衛門が枕元で何か文を書き、バタバタとタカマルを探しに行った。
 それまでは、か。俺はもう何も知りたくない。俺が本当は誰にどんな風に思われていたか。菊之助や狸平、ひいては狸穴島の妖狸達がどうなってしまうのか。
 俺は力を振り絞ってうつ伏せになると、八衛門がそのままにして行った筆を握る。震える手で、同じく残された紙に、菊之助に宛てた辞世の句を書き付けた。

 何もかも全部奪われた。立場も、家来も、家も、そして弟も。命だけは弥勒法師のお陰で助かったが、生き延びる為には更に自ら捨てなければいけないものが沢山あった。若君としての矜持、口調、本当の齢まで……。父から貰った「竹千代」の名だけは、獣兵衛様が俺を慮って呼び続けてくれたが。
 それでも己がだんだん何者なのかわからなくなっていく中、俺はその辞世の句として詠んだ歌を、時折取り出しては弟の事を思いながら眺めていた。
 それが俺に暗示をかけていたのだ。
「で、この辞世の句、どうすんの?」
「こうするんだぞ」
 俺はもろはが読んでいたそれを奪うと、理玖様の船の甲板から海に破り捨てた。
「お前が返事するまで、長生きしないといけないからな」
 先日勢いで好きだと言ってしまった。嘘なんかじゃない。俺はずっともろはのことが好きだった。しかしどう転んだとしても、俺は自分の気持ちを伝えないつもりでいた。俺は狸だし、家の事が片付かないと一生隠れて暮らさないといけないし、片付いたとしても家督を継げば自由に女を娶る事は出来ない。いずれ辛い別れがあるなら、初めから俺のことを嫌っているくらいが丁度良いとさえ思っていた。
 でも、無理だと思っているから何も変わらないのだ。俺は菊之助を助けられたし、それでいて家督も継がずに済んだ。それもこれももろはのお蔭だ。もろはが俺を信じてくれて、俺ももろはを信じたからだ。
「返事要らねえって言ったのお前だろ」
 確かにあの時はそう言った。でも、どのような返事であれ、いつまでも待つつもりだった。もろはならいずれ必ず答えてくれると、信じていた。

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