疑心暗鬼 [2/5]
あの時はそう、理想の男だと思ったのだ。
一緒に仕事をするようになって、暫く経った頃だった。あたしはその年のアウギュステフェスにどうしても行きたくて、でもお金の余裕が無くて、ただひたすら仕事を熟していた。
「割の良い仕事、見つけてこようか?」
そんな様子を見かねたのか、ドランクが言った。翌日紹介された仕事は、まあそれなりに大変だったが、その日一日の稼ぎでアウギュステまでの旅費にお釣りがくるほどだった。
「ありがとう……」
「どういたしまして」
頭上から降ってくる笑顔は、世辞を抜いても整っている。
年上の癖に落ち着きが無いし、胡散臭くて鬱陶しい奴、と思っていた。でも、この件で少し印象が変わった。
恩を感じた、とはまた違う。その時はまだ、あたしは自分の感情を正確に言葉にできなかった。
「暫く休むって言ってたっけ? 何処か行くの?」
「ああ。アウギュステに」
「良いねえ。そういえば僕、海って見たことないな」
あたしの目的は海じゃない。でも、フェス期間中ずっとライヴを聴いているつもりはなかったし、時期的にも泳げる気温だろう。
「一緒に行くか?」
そんな事を考えていたら、勝手に口が滑っていた。
「スツルム殿が良ければ」
いつもと同じ調子で返した彼の表情が、それまで見たことがないほど嬉しそうだったのを、忘れない。
こいつはあたしの事が好きなんだ。そう意識してしまって、正直、フェスで聴いた音楽の殆どを忘れてしまった。
海にも少しだけ入った。ドランクは泳いだことがないらしく、水に入る時は浮き輪を手離せなかったが、顕わになった引き締まった筋肉が海水に濡れて輝いているのは、年若かったあたしの心を刺激するのに十分だった。
「花火も上がるんだってねー。此処から見えるかな?」
フェス期間中は混雑していて、飛び込みでやっと見つけた宿は同室になってしまった。何もしないから、とドランクは誓って、実際、滞在最終日まで何もしてこなかった。
ドランクは広縁の椅子に座り、窓の外を見ながらユカタヴィラ姿でうちわを使って涼んでいる。解かれた髪の毛が扇がれて揺れるのを、あたしは部屋の中から見ていた。
「見えないようなら、ちょっと出掛けようか。……スツルム殿?」
「あ、ああ」
見惚れて返事をしなかったので、ドランクが振り返った。あたしはドキッとして、慌てて頷く。
暫くすると夜空に光が咲き、遅れて大きな音が聞こえた。
「ちょっと遠いけど、結構よく見えるね。スツルム殿も灯り消しておいでよ」
言われた通り、部屋の灯りを消して、ドランクの向かいの席へ。
ドランクは花火を見ていた。あたしも花火を見ていた。とても彼の顔など見れなかった。
こいつはあたしの事が好きなんだ。じゃあ、あたしの方はどうなんだ。
「好きだ……」
漏れる、という表現が言い得て妙だった。自分の口から出た言葉が、花火の音に掻き消されている事を祈った。
しかしドランクはエルーンだ。頭の上の大きな耳はあたしの声をしっかりと捉えたらしく、ややあって此方を向いた。
「僕もだよ。付き合っちゃう?」
返事をするのが恥ずかしくて、俯くように頷いた。ドランクが立ち上がり、あたしの傍に来て、膝の上に乗せていた手に彼の手を重ねた。
花火を見ていたあたしの視界をドランクが遮る。曇りの無い笑顔。重ねられたのは手だけではない。
「初めてだった?」
ドランクの濡れた唇が問う。
「お前こそどうなんだ」
「聞かない方が良いと思うよ」
初めてじゃない、のか。そりゃそうだ。こんな見目の良い男が、この歳になるまで放っておかれるはずがない。
「四半世紀も生きてると、多少はね」
ドランクがあたしの手を包み込む。その時あたしは、彼の指が、一番細い小指でさえ、あたしの手に付いたどの指よりも太い事に気が付いたのだった。
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