獣 [4/13]
僕が足元にも及ばないくらい格好良い人だった。それだけふとした瞬間に見える隙が、一層愛しく思える程に。
「あーあ、こりゃ酷い」
僕は寝室で肩を竦める。ベッドも布団も、びっしりと緑色の粉が付いている。どうやら配管が傷んでいて、こっちの部屋だけ湿度がおかしくなっている様だ。
とにかく、二人きりの宿で甘いひと時、というのは安全策を講ずるまでもなく幻想の中に消えた。硬い床での就寝は体に響く。明日の仕事に支障が出ないと良いけど。
「風邪引いたか」
僕が二度目のシャワーから上がってくしゃみをすると、スツルム殿は心配してくれる。口調はぶっきらぼうだが本気で心配してくれている。そんな心の機微が解るようになっただけ、僕も成長したと思う。
「水風呂二回は流石にね……」
それか、さっきの黴かな。本当にとんだ迷惑だ。
味付けされていないスープを啜る。全世界の料理がこれくらいの薄さなら良いのに。味覚が敏感で毒を嗅ぎ分けられるのは便利だが、世間一般の味付けが辛くてしょうがない。
スツルム殿は逆に濃い味が好きなようで、今日の夕食は珍しく顔を顰めながら食べていた。可愛い。
「食器僕が洗うよ」
その間にスツルム殿は洗濯を始めたが、うっかり下着を置きっぱなしにしていた為に一緒に洗われてしまった。嫌じゃないのかな、家族や恋人でもない男が着てたの触るの。
……洗ってくれたって事は嫌じゃないんだよ。皿を仕舞い終わって暖炉の前に戻る。ゆらゆらと揺れる炎は彼女の瞳の色だ。
それが嫌じゃないとしたら、何処から先はまだ駄目なのだろう。
「あたし何着て寝よう……」
「僕の上着貸してあげるよ」
スツルム殿は素直に受け取り、袖を通す。下着が触れるんだから上着なんてどうって事無いか。
しかし、いくら身長差があると言っても、上着だけでは到底丈が足りない。飛び出した白い脚から目を逸らし、話題を変える。もう撃つ体力は無いくせに膨れてきた劣情を見られないよう、ズボンを履き直す。
「スツルム殿、暖炉の前で寝なよ」
生脚を僕の腰巻で覆い隠す。なんだか想像していたよりも淫らな状況が用意されてしまい、僕は彼女から十分離れた位置に陣取った。
が、タイミング悪く出てくるくしゃみにまた心配されてしまう。
「お前もこっちで寝ろ」
「別に大丈夫だよ~」
「あたしが大丈夫じゃない」
大丈夫じゃないって、何が。でもまあ、僕も暖炉の恩恵は受けたいので、言葉に甘える。
そのまま寝ようと思ったのに、スツルム殿は折角隠してあげた脚を再び露わにした。
「ん」
ん、じゃないよ。入れって事?
「どうしたのスツルム殿。なんかやけに優しくない?」
「うるさい。あたしが寒いんだ」
とにかくその白い肌は目に毒だ。引き攣った笑みのまま顔を上げると、スツルム殿は耳まで真っ赤にしている。
自覚はあるんだろうか。いや、恥ずかしいとは思っているらしい。顔色で心情が筒抜けな自覚は無いかもしれないが。
半ば睨む様な視線を見つめ返し、僕はスツルム殿が広げた腰巻の下に脚を差し込んだ。
少しでも身動きすれば相手に当たってしまう、そんな近さ。暖炉の火で照らされて、互いの間に残された距離もはっきりと解ってしまう。
触れるのを許されている。
「じゃあ、おやすみ」
堪えられなくて目を閉じた。すぐに眠気がやってくる。普段寝付き悪いのに。でも、その方が今はありがたいか。
次に目を覚ましたのは、どしり、とした衝撃音でだった。エルーンの耳はドラフよりも鋭い。咄嗟にスツルム殿の向こう側に置いてあった剣を握る。宝珠は……立ち上がらないと届かない。
その獣は窓のすぐ外に居た。中を少し覗いたが、幸い人間の存在には気付かずに通り過ぎる。ほっとしたのも束の間、スツルム殿を組み敷く形になっていたので慌てて起き上がる。
獣。そうだ、獣と変わりない。美味しそうな人間が居ないかいつも探している獣。捕まえたらどんな風に食べるか楽しみにしている獣。
手近な女の子を食い荒らし尽くしても、まだ満たされない僕の方が質が悪い。もしかしたらスツルム殿なら満たしてくれるんじゃないかって、何の根拠も無く期待する愚かさを、僕はそのまま受け止めた。
自分自身にまで取り繕う必要も利点も無い。何もかも僕の胸の中に留めておけば、その獰猛な顔を見られる事は無いのだから。
また魔物が戻ってきた時の為に、宝珠を枕元に置く。姿が見えないよう、火を消す。
それが余計に僕を煽った。互いの吐息と衣擦れだけが部屋に響く。さっき圧し潰してしまった彼女の豊かな乳房の感触が思い出されて、手を伸ばしたくなる衝動と理性とが脳内で争う。
「寒……」
スツルム殿が呟いた。火は熾せない。使える寝具も無い。
あるのはこの燃える身一つ。
彼女が寒がっているからだ。そう言い訳しながら、その小さな身体を包み込む。
スツルム殿は逃げなかった。何も言わずにただそこに居た。
許されたんだ。そう理解すると不思議と劣情は収まり、僕はまた夢に落ちていった。
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