第4話:火種 [5/5]
「良かったのですか、奥……お嬢様」
「最初から不釣り合いだったのよ」
役所からの帰途、馬車の中でイオニアは使用人に笑いかける。
「さて、帰ったら新しい夫探しの仕事をお願いしようかしらね」
「お嬢様であれば引く手数多でしょう」
「手始めに舞踏会に行きたいわ。ダンスの練習をしなくてはね」
イオニアも自分の将来は心配していない。別に実家に残ったって、家督を継いだ兄とは仲が良いし、自分の存在が家計を苦しめる事も無い。
心配なのは、元夫に何があったのかだ。
『イオニア』
初めての顔合わせの日、彼は彼女のミドルネームを呼んだ。
『変わった名前でしょう?』
よく言われるので、緊張しつつも微笑んで返した。それを打ち返したのは予想外の言葉だった。
『遠い場所の名前ですね』
『ご存じですの?』
亡き祖父が昔旅した土地で、島の端から見える景色が大層綺麗だったらしい。今も昔も、この島から簡単に行けるような場所ではなく、彼女の祖父でさえ人生で一度しか訪れた事がなかったそうだが。
『ええ』
青い巻き毛の少年は、これまた遠い土地が原産の茶を啜る。
『宝珠の原産地です』
その後何と話を続けたのだったか。宝珠という単語が聞き慣れず、緊張していたのもありパニックになった記憶がある。
『いつか行ってみたいですね』
ただ、本当に行ける事など無いという確信めいた響きのその言葉を、彼はしばしば口にしていた。
「球ね……」
あの時ポーチの蓋の隙間から見えた球体と、服の裾の下に覗いた刺青の様なもの。
魔法には明るくないが確信があった。彼はイオニアに行ったのだ。
「何か仰いましたか?」
「ねえ貴方、『イオニア』への行き方をご存知?」
「はあ、聞いた事も無い地名ですが……。お嬢様のお名前は土地の名だったのですね」
「ふふ。そうでしょうね」
イオニアはふぁさ、と羽根の付いた扇で顔を煽ぐ。
「昔、この空の何処かにあったとされる場所よ。今は少なくとも、ファータ・グランデの中には無いわ」
祖父が訪れた土地は一体何処だったのだろう。名付けられたイオニア以外は、誰もが彼の冗談か勘違いだと思って、まともに取り合わなかった。その祖父も幼少の時に亡くなり、今はもう手掛かりを得る事すら叶わない。
こんな事ならもっとその話をドランクから聞いておけば良かった。それに、行く時は自分も一緒に連れて行ってくれるのだと信じていた。
しかし何を言っても遅い。ドランクはイオニアに、どうやってそこに辿り着いたのか、その土地で何があったのか、一切語る気が無いのだ。背中の文様を見られそうになった途端、本気で突き飛ばしてきたくらいなのだから。
或いは知らない方が良い、という優しさか。
「それにしても気付かなかったの? ドランクが彼だって」
「気付きませんよ。昔は髪も短かったですし、こう……立ち居振る舞いもちゃんと……」
「そうね」
イオニアは目を伏せる。
「立ち居振る舞いや、身分や肩書きに名前、服装や言葉遣いなんて所詮そんなものなのよ。少し変えるだけで全く違う人物に見えてしまう。人の本質は、そんな所には宿っていないわ」
「……そろそろ訊いて良いか?」
乗り合い騎空艇の、一番安い部屋。大部屋に何十人と詰められた一角に座り、落ち着いた所でスツルムは声をかけた。
「なんで突き飛ばした」
珍しく道中黙りこくったままだったドランクは、一呼吸置いてから短く答える。
「秘密」
なんだそれ、とスツルムは一瞬しかめっ面をしたが、違和感に少し顔の筋肉を緩めてその力を頭に回す。こういう時、相棒は「内緒」と言うのだ、いつもなら。
「そうか、『秘密』か」
ドランクの秘密。背中にある何か。それに触れられそうになって咄嗟にやってしまったのだろう。
通じてほっとしたのか、ドランクは他愛無い世間話を始める。
「……ん?」
ドランクの話はいつも通り右から左に流して考え事を続けていたスツルムは、ある疑問に行き着く。どうして背中を見られかねない事態に?
「……スツルム殿、なんかお顔怖いよ?」
「…………」
色々問い質したかったが、此処は人の耳がありすぎる。ぐっと飲み込んで、幾ら支払ったのかだけを訊いた。二人の預貯金のほぼ全額で、スツルムは思わず二回もドランクを刺した。
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