第4話:火種 [3/5]
あの館では誰もその少年の事を見ていなかった。ただ一人、彼の祖母を除いて。
或いは最初から、真の愛情など知らずに育った方が救いがあったのかもしれない。そうすれば少年も他の大人達と同様に、財産と権力を第一に損得勘定だけで世を渡れていただろう。
それでも彼は知っていた。本当は祖母から得られる安らぎを、両親や、居もしない友人や、まだ知らぬ恋の相手からも貰える筈なのだと。老いも若きも、どんなに貧しくとも、世の中の多くの人々はそれを支えに生きているのだと。
しかし少年にとっては、そんなのは夢物語だった。両親は「後継ぎとしての自分」以外には興味が無かった。同じ年頃の子供達は、将来自分に取り立ててもらう為に、擦り寄り胡麻を摺る者ばかり。
だからもう諦めていた。父親に見合いの話をされた時も、きっと一生恋心なんて抱けないのだと思っていた。
少年は用意された候補のプロフィールに目を通すと、求婚を無下に断られないよう、少し身分の低い家の娘を選り抜いた。その中から、たまたま名が目に留まった少女を選び、最初の見合い相手に指定した。面倒だから最初から二人目など考えていなかった。僅か数刻の面会の後に求婚し、目論み通り彼女は承諾した。
無い物強請りなどみっともない。相手にだって、格上の家の嫁になれるのだからメリットはあるだろう。
少年が青年と呼べる歳になる頃の話で、夢を完全に忘れるにはまだ若すぎ、一方で、現実を見なくて許される子供の時間はとうに過ぎ去っていた。
「元気そうで何よりだわ。この前は、あまりゆっくり話せなかったでしょう?」
イオニアは慣れた手付きでカップにお茶を淹れる。
「色々聞きたいわ。家を出た後、どうやって暮らしていたの?」
ドランクは出された茶を啜る。東の方の、茶葉に使われているのとは別の植物で香り付けしたものだった。若い頃好んで飲んでいた。
「のんびり思い出話なんてしてて良いんですか?」
「あら、別に良いわよ。物盗りなんて滅多に無いし、盗られて困る様な物は此処には置いてないわ」
「じゃあなんでスツルム殿を呼んだんですか」
「貴方の仕事相手だから、呼んだら貴方もくっついてくるかと思って」
はあ、とドランクは溜息を吐く。だったら最初からコンビで呼べば良いものを。いや、そうするとスツルムが返事をする前にドランクが断ってしまうからか。
「何が目的なんですか? スツルム殿に危害を加えるなら、いくら貴方でも見逃せませんよ」
「酷いわ。私そんなに意地悪に思われてたの?」
いいや、違う。彼女は聡明で、心優しい許嫁だった。どんなにドランクが冷たくあしらっても、必ず次に会う時には笑顔を見せる、気丈さと健気さを兼ね備えた少女だった。
……意地悪だったのは、ドランクの方だ。彼女の優しさも、慈しみも、全て「身分の高い家の嫁」になる事が目的だと決め付けて、受け取ろうともしなかった。
それが本物だと気付いたのは、ほんの半年前の事だ。
「どんな人なのか見てみたかったというのはあるわよ。ちょっと想像していないタイプの人だったわね、貴方が『殿』付けで呼んでいたから殿方だと思っていたし。でも、なんと言うか……格好良い人ね」
「ええ」
ドランクは茶の表面に映る自分の顔を睨む。
最低な男だ。何も言わずに島を飛び出して、五年も待たせた。本当なら今頃、子供が数人居たっておかしくなかったのに。
自分で火種を撒いておいて、燃え上がる様も見届けずに逃げ出した。燃え尽きて勝手に全て終わってくれる事を、心の底で願いながら。
「僕の事憎くないんですか?」
イオニアはおかわりを注いでいた手を止める。
「訊き方を変えます。僕の何処が好きなんですか?」
「……難しい質問ね」
イオニアは茶で口を湿らせると、続けた。
「恋も愛も所詮、全部思い込みだから、突き詰めると良くないわ。貴方も、『無条件の愛』を抱ける条件なんて無いこと、ご存知でしょう?」
「……そうですね」
血が繋がった親子なら、魂の繋がった伴侶なら、なんて詭弁だ。世の中にどれ程、捨て子や離婚した夫婦が居るか考えれば解る。
「私も貴方以外の人から、ときめく言葉をかけてもらった事が無いのよ、早々に許嫁と決まってしまったから。お断りすれば良かったのかもしれないわね」
そうすればもっと優しくて、まともな夫に出会えただろう。少なくとも、結婚を目前に控えたタイミングで行方を眩ませ、何年間も家に戻らないような男よりは。
「でも、断らなかったのは、私の意思でもあるのよ」
ドランクはカップを置いて、俯いた。
欲していた物が目の前にあったのに、気付かずに通り過ぎてしまったのだ。ちょうど今、下を向いているように、俯きながら歩いていたから。
「ねえ」
気付けばイオニアが長椅子の隣に座っていた。花の香りの香水が鼻をくすぐる。
「けじめとして、一度だけちゃんと夫婦になってくれないかしら?」
そうしたらこの後、離婚の手続きに行くわ。そう言って彼女は、ドランクの服の裾を掴んだ。
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