名前も知らない少女 [2/3]
自分は相棒の名前すら知らない。
「スツルム殿、今夜は幾らくらいなら出せそう?」
テーブルの向かいで肉料理を頬張る少女に尋ねた。彼女は口の中の物を飲み込んでから、お金を入れている巾着を取り出して中身を数える。見る間に顔色が変わった。
「……この島は物価が高いし、厳しいようなら貸すよ? 特別にゼロ金利で」
「いや、良い。なんとか今日泊まれるくらいはある。……多分」
「そう? なら人も多いし、食事は早めに切り上げて宿を探そうか」
正直、ツインベッドの部屋は絶望的だと思った。あの巾着の膨らみ方だと、一人部屋でもきつそうだ。
「別々の部屋でも良いんだぞ」
「その方が高くつくと思うよ?」
二人部屋を折半するのが最安だろうけど、ダブルベッドの部屋が空いていたとて、そこで同衾するつもりは無かった。
「うわ~狭い!」
僕は彼女のしがらみにはなりたくなかったから。「自由は繋がりを断ち切って掴む物じゃない」……その言葉に感銘は受けても、理解できる程器用じゃなかったから。
「スツルム殿はその広~いベッド好きなだけ使って良いよ…って痛い痛い痛い!」
だから引き留められた時にどうしたものかと悩んで、咄嗟にシャワーに逃げ込んだ。
「…………」
僕は彼女の事が好きだ。初めて会った時、その生き方を心底格好良いと思った。だから同じ生き方をしたい、一緒に仕事がしたいと思って追いかけて来た。
……でもそれは、女性として愛しているのとは違うんじゃないか?
スツルム殿に抱いてくれ、と言われたら抱ける自信はある。いや言われなくても同じベッドに存在するだけで抱こうとする力が働く。あの小さな体に大きな胸、寧ろ抱けない男が居るなら見てみたい。
だがそうやって抱いた所で傷付くのは彼女だ。僕の悪い癖だ、思わせぶりな態度を取ったのが良くなかった。相手はまだ年若い。僕みたいな年上男(しかもルックスが良くて強い)がしょっちゅう近くに居たら憧れの一つや二つ抱いてしまう可能性に思い至らなかった己が憎い。
……よし、決めた。僕はスツルム殿の事は絶対に抱かない。体の関係を持ってしまっても強く自立したままでいられる程、彼女はまだ大人じゃないだろう。僕はまだ、凛とした彼女を追いかけていたいんだ。
脱衣所の鏡に、前髪を纏め上げた顔が映る。自分で言うのも悲しいけど、酷い顔だ。湿った髪を解き、顔の右半分を隠す。
「お先~」
「ああ」
ベッドから立ち上がったスツルム殿と入れ替わりに、ベッドの奥へと潜る。先に眠ってしまおう。彼女はこの前受け取った手紙に返事を書くだろうから。
……そう簡単に寝られはしなかった。
手紙を書き終えたのか、スツルム殿が布団に入ってくる。緩やかに伝わってくる熱を意識しないように努める。
「……おい」
「なぁに?」
まさか話しかけて来るとは思っていなくて、思わず大きな声が出た。
「いや……その……」
覚悟を決めていたのは彼女も同じだったか。此処は先手必勝、それしかない。
「スツルム殿」
君はまだ、僕の虚像に夢見る少女だ。僕はまだ、それに付け入る悪い大人にはなりたくない。
「君の隣に居るのは名前も知らない男だよ。そして、これからもそう居させて」
「…………そうか」
寝返りを打ったのか、毛布が少し引っ張られた。続いて聞こえてきた嗚咽に面食らう。
いや、違うでしょ。何で泣くの。君は自由なままだ。そうじゃないのか?
「……っ」
僕は額を押さえ、出来るだけ悟られないように深く息を吐いた。今夜この部屋に居たのは「スツルム」ではなく、まだ名も知らない少女だったのだ。虚像に夢を見ていたのは、自分も同じだ。
それに気付けていれば、隣で震えている小さな体を、抱き締めてあげる事ができたのになぁ。
目覚めた彼女は「スツルム」に戻っていた。
僕は心底ほっとした。「スツルム」は彼女の全てではないけれど、幻影の類ではなかった。またこうして通り名を呼び合って仕事ができる。ああ良かった。
「良かった……」
そう言い聞かせないと全部崩れてしまいそうだった。
「ああ。今夜は広い部屋に泊まれそうだ」
仕事を片付け、依頼人から貰った報酬を手に持ったスツルム殿が答える。僕が昨夜見た肩を震わせている少女の方が、幻影だったのかもしれない。
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