宇宙混沌
Eyecatch

僕が死にたがりになるまで [2/5]

 僕が最初に犯した人は女優だった。
「そのう、援助額なんですが……」
「足りませんか?」
 僕は、とある劇場のパトロンになろうとしていた。オーナーと最終的な投資額を詰めている最中、相手が切り出す。
「ええ、あと二割ほど戴けますと、此方としても大変安心なのですが……」
「二割か……」
 投資先は此処だけではない。第一、こんな潰れかけの劇場に投資しよう、となったのも、僕の気まぐれだ。これ以上は厳しい。
 話がなくなっても、別に僕は構わない。断ろうとしたところ、奇妙な提案を持ちかけられた。
「今夜、うちの看板をお宅に伺わせますので」
 ……枕営業、というやつか。聞いた事はあったけど、本当にあるんだな。
「そんなに困ってるんです?」
「まあ……」
「そうですか」
 僕は契約書の金額を訂正する。あの家で与えられた名で署名した。
 あの家の名前は、何の実績も名声も無い僕がこうやって大金をやり取りする際に、相手を信用させるのに役立ってくれた。でも、もうそれだけの意味しか持たない。僕は、お婆ちゃんが僕の澄み渡る響きの名を呼んでくれるのが好きだったけれど、両親はそれこそ、誰かに僕を紹介する時くらいしか呼んではくれなかった。
「じゃあ、よろしくお願いしますね」
 泊まっている宿の場所を教え、劇場を辞す。僕は、また温かい布団で寝られるのだという誘惑に、打ち克つ事が出来なかった。
 あの件があってから、夜の店に行くのは躊躇っていたけれど、良い機会だ。情けないけれど、どんなに普段大人っぽく振る舞ったって、僕の体はまだ若さの有り余る十代の男だった。
 外は晴れている。この島は、実家からはそう遠くない。まだ一度だけだが、こっそりお婆ちゃんのお墓参りに行ける程度には。今日も雲の少ない空の向こう側に、小さくあの島が見えた。
 これだけ本名名義であちこちと契約を結んでいるんだから、僕が此処に居る事、気付いていない訳無いでしょう? それでも迎えに来てくれないって事は、僕の事、本当に要らなかったんだね。

 その夜、宿に来たプリマドンナは、とても落ち着いていた。
「……初めてじゃないんですね、こういう事」
「不安定な仕事ですから。うちの劇団は売れてませんし。……貴方は初めてなんですね」
 早々に見抜かれてしまう。ベッドに座った僕の顔を、彼女が腰を屈めて覗き見た。
「劇場では遠目でしか見えませんでしたけど、綺麗なお顔。旦那様じゃなかったら役者に誘いたいくらいだわ」
 ……胸が痛い。綺麗に見えるのは、僕のほんの一面だけだ。
 背中に手を回されて、はっとする。
「待って」
 僕は背中に隠していた短刀[ナイフ]を取り出し、枕元に置く。彼女は少しだけ首を傾げたが、続けた。
「随分鍛えてらっしゃるのね」
「……小さい頃病弱で。体力を付けるのは、色々と保険になりますから」
 病気にかかっても、重症化しなくなる。命を狙われても、生き延びやすくなる。枕元のナイフが目に入った。相手を一撃で殺せるように――そういう訓練を受けてきた。
 ……そこまでして、僕は生きていたいだろうか? 生きる為にだったら、何やってもいい? 僕は組み敷いた女性に問う。
「こんな事してまで、続けたいんですか? 女優」
「仕方ないわ。それに、私が少し我慢すれば、劇場も、劇団の皆も助かるもの」
 本当にそう? 僕の疑問は続く彼女の言葉にかき消される。
「貴方みたいに、人生に困っていない人には解らないわ」
「……そうですね」
 僕だって……僕だって、今の自由は、自分で勝ち取ったんだ。
 僕は彼女の細い喉に手を伸ばす。なんて不自由で可哀想な人。彼女は微笑んだ。
「明日の夜から、新しい公演が始まるの、ご存知? 私はソロも沢山あるの。旦那様は空席があればいつでもご覧になれるでしょう? 是非いらして」
 妖艶な姿とは対照的な、夢見る少女の様な声で言う。僕は黙って頷き、そこで理性の糸が切れた。

 客入りはまずまずだった。満席とはとても言えないが、初日とあって、赤字の心配をする必要は無い程度には入っている。
 僕はチケットが捌けていないから、と特別にボックス席に座らせてもらった。昔も時々、こうやってボックス席から歌劇を観た。両親が後ろの席に座り、僕は前の座席にクッションを置いてもらって、隣には……今はもう居ない、優しい人が居た。
 今日の演目は、ああ、古代のエルーンの王国が舞台のアレか。古典の名作だから、一度観ておけと小さい時に連れ出されたな。子供の僕には全然良さが解らなかった。
 会場の明かりが消えていく。重厚な扉が閉まる音。観客のざわめきが収まった時、この空間は北の山にあるエルーンの王国と化した。
 スポットライトに照らされて一人の女性の姿が浮かび上がる。それは昨夜、僕の腕の中に居た人。
 いや、違う。これからこの王国を傾かせる、美しくも毒のある王妃だ。
 ……あれは演技、の筈だ。でも、作った身振り手振りで、ここまで人は変われるのか。
 僕はそれから殆ど毎晩、その劇場に足を運んだ。それでも日に日に客入りは減っていく。投資先としては失敗だ。
 僕がその劇場からの二度目の援助依頼を断った時、僕はすっかりその演目の台詞を覚えてしまっていた。
 もうこの劇場に来る事は無いだろう。オーナーの部屋から出ると、プリマドンナが廊下の奥から自分を見つめていることに気付いた。
 すみませんね。結局貴女は、脱いだだけ損だった。僕が投資を打ち切れば、遅かれ早かれこの劇場は潰れる。
 僕は彼女に気付かなかった振りをして、劇場の扉を潜った。

闇背負ってるイケメンに目が無い。