第8話:ドランクを助けたいジータちゃん [2/7]
人が落魄れた先は何処に向かうのだろう。
ドランクは港から空の底を眺めていた。と言っても、厚い雲に覆われて、その先は伺い知れない。
彼には恵まれて生まれてきた自覚があった。両親は多少厳しく冷たかったが、祖母は優しかったし、何より家の太さは何にも勝る武器であった。衣食住に困らないのは当たり前、それどころか高水準の教育も受ける事ができ、将来の安定だって約束されていた。
最初はそれに満足していたのだ。いつからだろう。少しずつ闇が心を蝕んでいったのは。
祖母の死と婚約者一家の失踪が、彼の心休まる場所を奪ったのは確かだ。だがそれだけで此処まで落魄れる事はなかったのではないか?
「まあ、後の祭りだよねえ」
ドランクは呟いて煙草を取り出す。
ある時全てが厭になったのだ。特段の理由も無く、ただ、この世から消えてしまいたかった。
衝動的に家を飛び出したのは良かったものの、結局失えたのはあの家の名前くらいであった。生まれながらの器量の良さと要領の良さが、なかなか己を死なせてはくれなかった。他人が嫌悪感を抱かない見た目の人間が野垂れ死ぬのは、案外難しい。
煙草の先から灰が空の底に落ちる。あれを追いかけて行けば自分も死ねるのだろう。だが此処で欄干に足をかけたところで、周囲の人間が手を差し出す、いや、無理矢理押さえ込んで止めさせるに決まっている。光の世界にはお節介が多い。
誰か僕を殺してくれ。そう思いながら何人殺めてきただろう。殺される寸前の人間は本気で抵抗している筈なのに、誰一人ドランクには勝てなかったのだ。
ただ一人を除いて。
「……どうしてやめるの?」
深い森の中。青い髪のエルーンは湿った土の上に転がり、赤毛の少女を見上げていた。首には彼女の大剣が、あともう少しで刺さるという位置に静止している。
「僕の負けだ。殺してよ」
良い人に当たったなあ、と思った。本気でやりあって、負けて、殺されようとしている相手は、長らく忘れていた他人への憧憬という感情を思い出させてくれた。割と酷い人生だったが、憧れの人に殺されて終わるなら、まあまあの評点をつけられる。
「……見逃してやる」
剣を引っ込めた彼女を、金色の瞳がぐるぐると不思議そうに見つめる。
「なんで?」
「此処で刺したら負けのような気がした」
「何それ」
笑うと肋骨が痛んだ。殺されなかったとはいえ、それなりの怪我は負わされている。
「あたしは、死にたがりを殺める為に傭兵をやってるんじゃない。お前に戦意がもう無いなら、あたしももうお前に用は無い」
去り行く背中に問いかけた。
「名前、何ていうの?」
彼女は答えない。青年は少しだけ、生き甲斐を見つけられたような気がした。
なのに彼女が先に死んだのだ。
「待たせたな」
聞き慣れた声に振り返ると、スツルムが買い物を済ませて立っていた。
「って、また煙草!」
ドランクの手を叩いて煙草を落とし、止めさせる。ドランクは空の底に落ちて行くそれには見向きもせずに、彼女に向き直った。
煙草を摘んでいた右手が、今度はスツルムの細い首に伸びる。
結局彼女が、また虚無へと突き落としたのだ。ただ胸を締め付ける苦しみしかない、虚しい人生に。
「ドランク?」
問われて我に返る。手を引っ込め、へらへらとした笑みを作って誤魔化した。
様子がおかしい。自分でも知覚出来る程だった。
今ドランクは、スツルムの事が憎くて仕方無かったのだ。
「ねえ、スツルム殿……」
手袋の中で冷や汗が滲む感覚がある。
感情を取り戻して、今の自分のスツルムへの想いが、愛情よりも恨みや憎しみで満ちていたらどうしよう。
「……今回の依頼、ユーステス君は来れないけど、ベアトリクス達も手伝いに来るんだって」
「へぇ。……それだけか?」
「うん。それだけ」
やっぱりやめようか、とは言えなかった。それでも二人に希望があるとしたら、これしかないのだ。
冷え切った記憶に縋って、ただただ退屈な日々を過ごして……いつかまた失うかもしれない恐怖だけを抱えて生きるのは、正直辛い。そんな不完全な自分に、スツルムを縛り続けているのも、だ。
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